2017年11月23日木曜日

日本国の成立と数字の六(その2)

前回、日本「国」が成立するためには、国の統一基準の土地制度が必須であったことを話しました。 https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2017/11/blog-post.html

興味深いことに、この日本初の土地制度である班田制や条里制は、六という数字が軸となり成立したのです。班田制と条里制の概要を以下にまとめます。

【班田制】
土地は国が年ごとの戸籍に基づいて、年に1回、歳以上の男女に口分田を与えた。

【条里制】
1.1町の長さを60歩とした。1町四方の区画を1坪とした。
2.1坪を個、東西に並べて1里の長さとした。
3.1坪を個、南北に並べて1条の長さとした。
4.土地の位置や面積は、○○条○○里の単位で表した(だから条里制です)。

つまり、1条1里は、坪x坪の面積のことです。
1条の長さ=1里の長さ=町分の長さです。

小学館 デジタル大辞泉 参照

このように、という数字は、古代日本の土地制度の軸でした。なぜであったのかは不明ですが、土地制度が国の予算や地方管理の基盤だったことを考えると、少なくとも古代の日本人が6という数字をとても重要視していたことは明らかです。

愛知県岡崎市には「六が付く地名」が多く、その地名は直線状に並んでおり、その先には伊勢神宮がある不思議な現象を以前紹介しました。この「岡崎の六並べ」という現象がなぜ生じたのか、その理由は不明ですが、私は今回述べた「稲作(米)の水田と六」の関係が深く関与していると考えています。

なぜなら、岡崎は天皇が新しく即位した時の大嘗祭で、お米を奉納する名誉ある悠紀斎田の地に過去何度か選ばれています。天皇家や伊勢神宮と岡崎はお米(水田)を介して古代より深いつながりがあった土地だからです。

ブログ「岡崎の六並べ」を書いた渡辺氏もご自身のブログの中で、地名の推理から「六という数字で大切な米と水を守った」のではと考察されています。稲作(米)と六の強い関係は、愛知県岡崎市の地に残されていたのです。

さて、数字の6が軸であったのは、稲作の土地制度だけでありませんでした。調べてみると、古代日本人の生活や文化には、数字の6との関係が他にも広く見られたのです。次回、それらの事例をご紹介します。
https://otonano-kodaishi.blogspot.jp/2017/11/blog-post_25.html




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